経済

知る人ぞ知るシルビオ・ゲゼルという人の経済理論に賛同します。お金は便利ですが、問題は多くあります。お金は腐らないので、いくらでも貯められるので、お金がお金を生むマネー経済が肥大化しました。そもそもお金は国家ぐるみの陰謀であり、国民に借金させることで成立しているのです。印刷されたお金は国家に貸し付けられ、それを国民は国の借金として返済させられるわけです。そして、貨幣経済は一度スタートするとクラッシュするまで止まりません。気がついたら地球の自然を食い尽くしていた、ということになります。そして地球が何個分か買えるだけのお金がだぶついて、行き場をなくしているのが、現代文明です。このアンバランスな現状を実態経済に戻すには、ゲゼルにならい、お金に有効期限を設定すればいいです。食料に賞味期限があるように、お金も期限付きにすれば、お金は回り始め、隅々まで豊かさが届くようになります。江戸っ子の「宵越しの金は持たない」という粋なスタイルを復活させればいいです。江戸時代は人口も少なく、いわしはたくさん獲れるし、自然も食べ物も豊かだったのでしょう。江戸前でその日の獲物を釣って食べていればよかったのです。現代でも、気持ちのうえで「きょう」を生きればいいのです。将来のことを心配して生きていると、魚を獲れるだけ獲って保存しておこうという発想になります。今の時代では、お金がないと生きていけないという洗脳がしみ込んでしまいました。毎月の給料がなければ生活できない世界は、とても貧しいです。スーパーでの買い物は味気ないです。それに比べれば、まだ東南アジアの市場は活気があり、豊かです。安い果物がたくさんあっていいです。
 また、肉食をしていて、いいことはないです。食べられるほうの動物に恨まれます。おいしい、といって食べている場合ではありません。肉食して喜びなど感じられるはずはないです。家畜にえさをあげれば、人間が食べる穀類は足りなくなるし、森は消えてゆくし、地球のキャパシティを超えてしまいます。もし人類が今より進化し、みんなが菜食を始め、病院にも行かず、心身ともに健康になれば、地球も劣等生を卒業して、輝ける星に格上げされるでしょう。そういう世界では、牧歌的な風景がひろがり、そんな風景を眺めているだけで幸せを感じるようになります。なにしろ、進化した世界では、欲望のピラミッドはなくなり、支配者や権力者もいないし、地球の富はみなで分かち合うので、密集した都市は必要なくなります。田園が広がる中で、自由に手作りした家が点在しているなら、そこにぼくの家をもう一軒建てたいですね。


我が家の家計

     メーターなしの山水。年間\10,000                            
ガス 半年で\3000
灯油 \2100/月(最近石油ボイラーを設置しました)
電気 \2500/月、天窓のおかげで昼間の照明は要りません。
電話 \2700/月
インターネット \2900/月
食費 \38000/月
医療費 限りなくゼロに近い。年に一度歯医者さんに行く程度。

いろんな場所に住んできたので、引越しするたびに自分の所有物に直面し、処分してきました。本当に必要なものは、そんなにたくさんはなかったのです。つまり、資本主義の大量生産、大量消費は自分には全く無縁です。テレビのCMにつられて何かを買った記憶もないです。かぜをひいても、薬を飲むことは皆無ですし、断食して直るのを待ちます。「日本が豊かになった」というおめでたい人々がいまだにたくさんいますが、実際は石油製品があふれて、根本的に必要でないものに囲まれただけです。ついでに言わせてもらえば、鉄筋コンクリートの建物はすべてスーパー粗大ごみです。ごみを作りすぎたあげく、経済を支えている自然そのものが疲弊して、もはやどこにも行き場がないのが現状です。
 僕の気づきは、「不必要なものを望まなければ、必要なものはやってくる。」ということです。必要なものと欲しいものとは違うのです。当然、それは物質的にも精神的にも言えることです。食べる量も小食にすれば、お腹は軽く、からだも動きます。からだを動かせば、食事もおいしいので、快適です。
 それでも、信州の冬はたまに雪かきにうんざりすることもあり、いいことばかりではないです。埼玉に住む祖母は、「雪が降ってたいへんね」とよく言います。そういう時は、「季節にめりはりがなくて、ひまにまかせてテレビを見てるだけの生活じゃ、退屈して死んじゃうでしょ」と言い返します。雪が降る中で、薪割りをし、からだが暖かくなると、生きている実感が湧いて来ます。本当は、雪でも雨でも、自然現象を体験することは、人間にとって喜びなのです。観念が邪魔して喜びを遮っているだけなのです。雪解けの頃咲く福寿草に感激できるのは、雪に覆われた冬を過ごさなければ得られないです。ただ、都会の人だって、夜空の月や夕焼けを眺める楽しむ余裕もあるでしょう。田舎に住む人が、山の風景や青さぎの飛ぶ姿を楽しんでいるとは限りません。池のフナを青さぎに食べられてしまい、あげく池を埋めてしまった人もいます。青さぎの情緒よりフナのほうが大事なのです。たまに牡キジの雄姿をみかけ、ぼくはその美しさを鑑賞しますが、猟師さんは殺してしまうでしょう。ぼくにとって、生きものは殺して食べる対象ではなく、同じ星に住む仲間です。シアトル酋長のことばは現代でも生きています。シアトル酋長の言葉