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HP作者が塾や家庭教師、宿、家庭その他で経験したこと、
感じたこと、実践したこと、思うことなどをつづります。
2019年3月18日更新
教育観
 教育にかかわろうと思ったのは、自分がさまざまな人に恩を受けてここまできたと感じているから。
 特に影響を受けた人、まず小学校の先生。その先生はとても旅好きでよく旅の話をしてくれました。そしてよく遊んでくれました。その次に中学の塾の先生。この方は僕に一番影響を与えているかもしれない人。さまざまな人生経験、職業経験を持っている人でした。この先生が話してくれたことが僕の心にはすごく印象深くて。今も尚影響受けていると思います。僕の生徒とのかかわり方は、この先生のスタイルだと思います。
 教育って自分が受けてきた恩を次の世代へ送って行くこと。そう思ってます。
 そう言う意味でも、自分の人生を生徒に見せてあげることも必要だと思ってます。だから僕の授業は雑談が多い。無駄なような時間が実は大切だと思ってる。もちろん話す言葉は、考えていて選んでいる。

近頃の先生観・親観
 採用枠などの問題で教師への道がとても厳しくなっていた。おかげで、高学歴でないと教師になれない。先生の器量より学力が重視されてしまう時期があった。しかし、今は仕事が多い環境が悪いと教師志望が減ってきた。社会経験のない狭い教師の世界での経験しかない先生が多いことも問題。先生の世界は世間が意外に狭いことが多い。ここに非常に問題があると思う。また、必要以上に親、PTAの力が強かったりして、何事も問題があれば、その責任を回避しようとする傾向が強い。特に今はNETやSNSなどの情報で無責任なものも多く、そこに惑わされる傾向が強い。だから自由な教育はできないし、厳しいしつけもできなくなってしまう。先生もびくびくしている。私個人的には体罰が必ずしもいけないと僕は思わない。ようは、体罰の是非も愛情があるかどうか、生徒の気持ちになれるかどうかにかかっていると思う。もちろんそういう方法で指導しないのが一番よい。生徒指導の力がある、人生経験や職業経験豊富な人が先生にならず、生徒にいい影響を与えられる先生や個性がある先生が少なくなっていると感じる。名物先生とか頑固先生とかこれまで校風をつくってきた先生達が学校からいなくなっている。先生の器量が狭くこのむずかしい時代に、様々な問題を抱えた状況の生徒がいるにもかかわらずそれを受け入れることができる先生が少ない。また、その問題を処理しきれない先生たちが病んでしまう。人を相手にする仕事だから、その人の人間性や寛容性がなければいけない。
PTAだっていつまでも変わらない変えられないそういうシステムの中で、毎年同じことを繰り返しながら時代遅れになっていくことも多い。
世の中が大きく変化する中で、未来を見据えて本当に必要な力とは何か、学び方や指導の仕方、内容も変える必要がある。
子供は変わっていく、なのに親や教師が変われなくてそのずれは大きくなっていったりする。
 親にしてみれば、過保護か逆に忙しさや自信のなさからほったらかしの構造が多く見られる。親がすでに親子関係を築けなく育ってきてしまっている場合が多くて、たとえば今マザコンの父親などがすごく多いと感じるが、そういう親の子供が立派に育つと思えるはずがない。先生も親も問題があれば必ず自分の責任を見つめず人のせいにする。だから子供はまた自分達の責任を人のせいにし、いつも大人に不信感を持つ。話をいきいてくれない先生、親が実に多いと感じる。つまり子供に向き合ってない大人が多い。もっと子供の話を聞かなくてはいけないのに。そして何より精神的に病んでいる先生が多いのには驚くが、これは生徒にとってあまりに不幸。それをどうもできない公教育の現状をみると絶望感すら感じます。働く人の人権が大事なのはわかるが、子ども人権や学ぶ権利はともに大事。

登校拒否
 今実に多いが僕も指導した生徒に登校拒中のもの、登校拒否経験者が何名かいました。田舎にきて特に思うのは登校拒否も田舎都会関係なくいる。そして理由もさまざま。登校拒否児へは働きかけは必要だろうけど、その原因は様々で、その見極めが難しい。親の甘やかしから来ていると思える登校拒否もあれば、世間体を気にする親や祖父母の厳しさが高校拒否につながっていたり、まったく違って発達生涯などの子供たちの二次的障害の場合もある。しかし、そういう子供に対して、先生も親もやっぱり基本は待ち。あせりや偏見は禁物。
僕もその道の専門家じゃないけど、基本は人間と人間のぶつかり合い。本音で、かつ、おおらかに相手の立場で受け止めてあげること。受け止める側の寛大さが必要。

いじめ
 僕自信いじめられッ子だった経験があります。小学校高学年から中学時代です。
 それをどのように克服してきたかと考えてみると、やはり他人が助けられるものじゃない。本人の力で克服するしかないと思ってます。できるのは本人にその気もちをもたせてあげる、自信を持たせてあげることを助けるだけ。ようは自立させること。クラスにいじめはありませんと先生はよく言う。実はいじめがあって相談された例は何度かある。僕の知り合いの先生は逆に、このクラスにはありますと言った。しかし、僕から見ればそこにはいじめなどなく、いじめているのは実は先生だと思った。LDやADHDなどの子供たち、障害をっ持つ子供たちはいじめられやすく、そうした子供たちの親までその影響で心がすさんでいる人もいる。そういう人を助けることが多くなってきている。悲しいことだ。

非行・校内暴力
 僕が行ってた中学は校内暴力の走りでした。窓ガラスはぜんぜんないし、先生がみんな入院してしまうぐらいすごかった。親を見ても先生を見ても逃げ腰、人のせいにしてる状況をよく感じる。田舎では長い間同じ生徒と関係を持つ割に、生徒とのいい関係を築けない先生も多くいるように感じる。僕も多くの不良と呼ばれる生徒を持った経験がある。つきあって感じたのは二人でいると意外にいいやつってこと。彼らは大人にうんざりしてる、みえや建前や見せ掛けの部分がよく見えてる。だから本気でつきあってないと、なめてかかってくる。僕も確かに彼らにぶつかって行くのは怖いです。でも誰かがやらなきゃ、何もよくならない。しかも、付き合ってゆけば必ず彼らはよくなる。しかも立派になる。いい言葉を投げかけていると必ず反応がある。もちろん少しづつだけど。やっぱりあせりは禁物。彼らもそれを待っている。ぼくはその確信を持っているからこそ彼らと付き合える。でももちろんそれはしんどいし、大変。
今はむしろ、引きこもりが多く、時代は変わっている。

幼児教育
 適切な教育なら受ける価値はあると思う。でもなんでも塾にいけばいいと勘違いしてる親たちも多いと思う。それはかえって逆効果。僕は塾時代右脳教育にかかわった経験があります。考えてみるとなぜそんなことが必要になってきたか、そのひとつは自然がなくなってきたこと。自然があるとそれこそ毎日の生活で知恵がついてくる。TVによる平面バーチャルの世界。そしてものの氾濫。満たされすぎてる生活。何も考えなくても生きてゆける。それからやっぱり親子関係かな?親が忙しい。仕事仕事で、子供とのかかわりのなかで教えてあげるべきのことを教えてない。だからそんな教育が必要になってくる。だから昔に戻ればいいと思う。

学校教育
 指導要領も変化してきた。何度も変わる制度、ゆとり?平等?なんか言葉はいいけど、個性を伸ばさない教育をしすぎてきた。知恵をつけない教育が多い。生徒の得意な分野はどんどん伸ばしてあげなきゃ行けない。それが生徒の将来につながるんだから。先生の器量が低下すればするほどマニュアル化する。そうなればますます個性がなくなり、先生の器量もなくなり育つチャンスを子供からも先生からも奪うことになるように感じる。先生の高教育が弊害に感じることもある。学生時代成績悪くても努力して先生になった人を何人か知っているけど、そう言う人たちの力ってすごい。
総合的な学習が評価されていない学校も多いが、生きる力をつけるために充実させることは、今の教育の中で重要。しかし、それを進められない教師も多く、それは経験がないから。もっと地域の人材を使って可能性を広げる必要がある。教師に教えられない学びはある。できることは。それをファシリテートすること。

塾について
 僕の塾時代の基本は、中学時代の塾の恩師です。その先生のおかげでとても成績が伸びました。それだけでなく、いろいろな人生があることも教えられました。
大人になってからも会いに行ったけど、そのとき、自分の人生が先生の影響にあったことを再認識しました。そのとき言われた言葉は、この時期(中学)の先生の影響は大きいいものがある。人生を方向つけるかもしれない、だから気をつけなければいけない。
僕は先生業をするときにはその言葉を忘れないように今もしています。
 多くの父兄生徒は塾選びを間違ってきたと思う。僕が見ているとくだらないと思う塾に大勢が通ってきた。大事な時代をいい人とめぐり合ってほしいと思うのに。テストに慣らす教育指導している塾が多いし、一部の成績のいい子供だけを目当てにしている塾も多い。考えない子供を作るのはもうやめてもらいたい。
 近年個別指導が非常に多くなったのは時代のせいか?僕としては、ある程度いる生徒で、コミュニケーションを大切に本当は指導がしたいと思う。

ADHD、LD、アスぺルガーなど障害者教育
 アスペルガーの子供や大人に関わることが多くなった。僕もアスペルガーは20年ぐらいの付き合いだが。多動障害やLDは30年以上も前塾の時代から知っていた。LDも自分の生徒にいた。意外なのはこういうことをまったく知らない先生が多かったこと。近頃ようやくそれが一般視されているが、また保護者には偏見も多い。僕はたまたま自分の子供に目の障害がある。おかげで障害をもった子供の親、先生などにかかわりを持つことができた。障害をもった子供の強さ、親や先生の許容力、能力、努力それはすごい。そしてなんといっても心がすばらしい。最近そう感じる。でも残念ながら、学校での自律学級とか特別支援学級とかそういうクラスの先生たちにもまだまだ十分理解されていない場合もあり、また先生の不足で、対応が不十分なことも多いと感じる。もっともっと経験豊かでこういう専門の先生が多く出てくることを望む。また自分の子供の障害を認めない親もいるが、それは子供を不幸にするだけ。

子供の責任
 よく忘れものをする子供がいると、親がそれを届けたり,自分で起きれない子供を毎日起こす母親。子供が悪いことをしたり人に迷惑をかけていつも謝っている親。先日なんか、生徒がゴミをそこら中において行くのを拾って回る先生もいた。こう言う行動は子どもの責任を親や先生が取っている。こういうことを続けると、いつまでも子供は責任をとれない。遅刻したら、忘れ物をしたら子供が怒られ,困ればいい。子供は今度からしないようにときっと学習する。ゴミを捨てて行くような生徒がいれば生徒にひろう役を与えればよい。落書きしたら生徒に消させる。そうやって子供に自分の責任をとらせるというということはとても大切なことだと思う。

私の教育指導方針
 僕はとにかく生徒と正面からぶつかるつもりでつきあってる。だから怒るし褒めるし時には泣くし、一緒に遊ぶし。生徒にはなんでも自分で決めさせる。僕が強制はしない。自分でなんでも考えさせて自分でやる。はじめるのもやめるのも。テスト問題をやらせて慣らす教育はしない。どうしてなぜ?こうなるのかをよく考えさせる。知恵がつくようにどうしたらいいかいつも考えてます。だから指導要領なんて必要ありません。どんなに成績が悪くても本人にやる気があるならとことんつきあいます。生徒にとって、結構難しいことまで教えます。ときどき、難しくてわからないといわれます。でも本人にも言うんだけど、将来の可能性のためにあえてそれもやっています。子供って無限の可能性がある。いつ伸びるかわからない。いつか子供は自立する。そうなったとき始めてその子は伸びる。だから教育は待ちだと思ってる。

最後に親に言いたいこと
 親が親としての「覚悟」を持ってほしいです。子供を怖がるような親は失格です。「あんたがうんだんやろ」だから始末は自分でつけなって言いたい。先生が悪いの、世間が悪いのと細かいことをごたごたいって、教育やしつけがうまく出来ないことを他人のせいにしないでもらいたい。子供はそれを見ているから必ずまねをする。お父さんが子供の教育に関わらない地域は、必ず問題が起こる。とくに男の子の教育にはお父さん大事です。みつ子の魂百までとか言いますが、小学校はいるまで、そして低学年の時代のしつけができていない親が多すぎる。今も僕はうどん屋をしながらも、小さい子供をつれた親を観察しています。ご飯が集中して食べられない子供、食べ物を粗末にする子供が随分多くいますが、間違いなく親の行動がそれを決定付けている。僕は、ただのうどん屋の親父だけど、それを注意したり叱るときもある。この時期にちゃんとしつけが出来なければ、ずっと親が困り、子供が困る。中学生になって勉強できない子供を作っている。そして教育は親、先生、そして社会みんなでしなければいけないし、問題があればみんなの責任。そういえば、飼い犬のしつけができていない家庭は、子供のしつけも出来てないこと多いですね。